卵焼きが2切れ。
ほんのり焦げ目がついた黄色い卵焼きが小皿にのせられ、食卓に並んでいる。
ごはんができたよ~と母さんの叫ぶ声に呼ばれ、バタバタっと食卓につく。
母の手料理がずらりと並ぶ中、そこだけ素朴に懐かしさが漂っていた。
そうそうこれこれ。
食べる前から口の中に甘い甘い卵焼きの味が広がる。
関東風とか関西風とか、どちらにも属さない、我が家風。
我が家風は少し固めに焼かれているから、箸ですっとつかみやすい。
一口噛むと、ふんわりと甘さとともにノスタルジアがからからと響く。
するとどうだろう、食卓だったり、お弁当だったり、かつての卵焼きがある風景が走馬灯のようにかけめぐる。味は不思議だ。口の中から思い出を呼び起こす。
1年ぶりに故郷・新潟に帰省した。「新潟まつり」の開催に合わせて。
随分久しぶりの帰省だなと思ったけれど、前回の帰省からまだ1年か。
しかし、この1年で新潟駅の改装工事は進み、だいぶシュッとした。懐かしい新潟、だけど知らない新潟。眼前に立ちあがるのは新・新潟だけど、わたしの脳内ではかつての新潟に変換されている。取り壊されだはずの駅の錆びた階段の気配、今はなき昔行きつけだった飲み屋の気配。そんな気配たちが眼の奥で揺ら揺ら見えるわけだけど、それは、古道具屋で一枚数百円で売られている昔々のモノクロだったりセピア色だったりの昔の写真をガバッと手に取り一枚一枚見ていく感じに似ている。脳内の古道具屋から古い写真を一枚取り出しては現在に重ね見る。
帰省しての3日間は新潟まつり三昧だった。大民謡流しで新潟甚句を爆踊りし(佐渡おけさは踊れない)、万代太鼓へのあこがれは今も消えず、住吉行列の天狗と獅子舞を見て、小さい頃はめっちゃ怖かったやつ! なんて思い、お祭りの締めくくりの花火大会で、ばったりと高校の同級生に会い、「もしかして大竹さん?」と久しぶりに旧姓で呼び止められて戸惑いながら、花火の美しさにうちのめされた。近くにいた子どもが「宝石だ~」とキラキラした声で叫んだ。その気持ちを大切にしてね、と思う。
故郷の祭りは、すべてが懐かしいビートとしてわたしの心と体を振るわせた。祭囃子に花火の音、住吉行列の足音、行きかう人々の話し声、どこかで誰かがプルタブを開ける音も…すべてが音波のうなりとなり、わたしに打ち付けてきた。そして、わたしの心身に波紋ができる。これがわたしのビートなんだ、としばし、その波紋を静かに受け入れ感じいる。
正直、お祭りの規模はなんだか小さく、街全体の人口減を感じずにはいられなかった。調べていないからわからない、肌感の話である。わたしが年をとったせいで、憂うことがうまくなったから、そんなことを感じるのかもしれないし、子どもの頃の好奇心をどこかに忘れてきてしまっただけかもしれないし…はたまた真実なのかもしれない。広大な懐かしさと、押し寄せる寂しさ。
そんなことを考えながら、かつて三越があった場所を歩いていると、ふっと目の前を、母に手を引かれる子どものころのわたしが横切った気がした。またもノスタルジアが音をたてる。
思い出深い場所にも足を運んだ。新潟市美術館。わたしが生涯ではじめて「美術館」を経験した「美術館」だ。頼りないかもしれないけれど、わたしの記憶ではそうなっている。はじめての美術館。何を見て、何を感じたのか、そこまでは思い出せない。しかし、一歩中に入ると、はじめての時の感触が蘇ってくるようだった。匂い、歩いた時の感触、館内から見る庭、艶やかなタイル…ひとつひとつが私のはじめてにつながっている。
訪問時は「遠藤彰子展 巨大画の迷宮にさまよう」が開催されていた。書店員時代に、遠藤さんの画集を仕入れて販売した経験があり、画集からも画家の絵筆の力強さと絵に描ける本気さが伝わって来てとても気になっていた。思い出の美術館で、そんな遠藤さんの個展に邂逅できたのはとても嬉しい。展示会場には、500号超の作品がたくさんでど迫力。1000号、1500号も…! 画面にぎゅうぎゅうに描かれてるように見えるが、大胆な間がとられていたり、すっとそよ風が吹いくかのような抜け感もあったことで、圧倒されるだけでhなく、絵に溶け込めるような感覚にもなれたのがよかった。それにしても…こんなに大きな絵を工房ではなくて一人で描いてるエネルギーには驚かされるし、久しぶりに観るパワーが呼び覚まされた。観ることも相応のエネルギーが必要なのだ。
はじめての美術館は、その後、鑑賞者としてだけではなく、ボランティアやアーティストサポートのような形でもたびたびお世話になった。新潟市内で開催される芸術祭「水と土の芸術祭」の第1回目では山口啓介さんの作品制作をお手伝いした。大きな新潟の地図の絵に、カセットプラント。山口さんには今もとてもお世話になっていて、「アーティストはあなたのようにサポートしてくれる人がいるから作品を創れるんだよ」という言葉をかけていただき、この言葉は、大きくわたしの人生の道標となった。
小さい頃、見上げていた大きな彫像も、今では見上げるまでもなく鑑賞することができる。ああ、デカくなったなあ、わたし。と中学生のような感想がうかぶ。
すると、またもや母と一緒に美術館を歩く幼いわたしが見える。母も父もたくさんたくさん美術館に連れていってくれた。それが今のわたしを形成している大きな体験だったことは言うまでもない。本当に感謝している。
通っていた幼稚園にも行ってみた。卒園してからはじめてかもしれない。新潟市美術館からまあまあ近い。新潟中央幼稚園。わたしは、幼稚園に車通園していた。毎日毎日、母が車で送り迎えをしてくれていた。車中には決まってサザンオールスターズが流れていた。母が迎えに来るまで、放課後保育のようなところで待っていた。ひとり、またひとりと親が迎えに来て帰る中、わたしが一番最後になることはしょっちゅうで、その時のポツネンとした寂しさは言うに言えんかったな。幼稚園はどちらかというと嫌いだった…いじめられっこをかばって逆にわたしがいじめられだしたあたりからだろうか。お遊戯会の親の出し物で、まわりの園児の母親はお姫様とかセーラームーンとか、かわいい役なのに、なぜかわたしの母は全身黒タイツに、段ボールに金の折り紙を貼って作った金貨をじゃらじゃらつけて、ずた袋から「金貨マンだー」と飛び出す役だった。「あれ、誰のおかあさん?」と、ざわつく園児たち。そんな母が誇らしく、かっこよく見えた。しばらく、我が家では母を金貨マンとして扱っていた。
まあ、思い出と言ったらそれくらいの幼稚園。浄土真宗大谷派勝念寺内にある幼稚園なので、お寺をお詣りして帰ることにした。すると一枚の衝立が目に入る。お釈迦様の涅槃図だ。そういえば、この涅槃図をみんなで模写をした。たしか、お釈迦様が涅槃に入られた日、涅槃会に。絵を描くのは大好きで、嫌いな幼稚園もこの時間は好きだったな。
白山神社にも行った。ここは、大学の面接の日の朝に父と一緒に訪れて、合格祈願して、父と人生ついて語り合った場所。父と二人で腰を据えて話すことはしたことがなかったから…いい時間だった。
今回はあまり外食をしなかった。美味な貝楽酒場「たらふくうなり」さんで大好物の貝料理をいただき、小嶋屋さんでへぎそばをいただいたくらいだな。ほとんどの日を母の料理を堪能した。料理好きで料理上手な母である、どんどん新しい料理に挑戦するから、思い出の味というより、どれもこれもおいしくて斬新で、創作料理のお店にきたのかな~という気分にさせる(結構食べたから体重計に乗るのが怖かったけど一キロ痩せててたのは嬉しい)。だから、卵焼きだけ懐かしさが漂うのだ。料理好き、料理上手の血をまったく受け継いでないのではないか、というわたしのズボラ料理よ。
東京に戻る日。父が急に入院し、このまま戻っていいものかと後ろ髪をひかれながら新幹線に乗りこんだ。ひゅんひゅんと流れる田園風景を眺めながら、いつか故郷に帰って生活する日がくるかもしれないな、なんて何の根拠もない考えがポッと浮かぶ。
何だって今回の帰省はこんなにノスタルジアが音を立てたのだろうか。
きっと、母の卵焼きを食べたから。
甘い甘い引き金が引かれたんだと思う。
全部卵焼きのせい。そういうことにする。