気がついたら4月がやってきていた。
春。きっと4月は春なんだけど、一体いつから「春」がはじまったんだろう。
雪が解けたら? 立春を迎えたら? 桜が咲いたら?
この季節になると、いつも思い出すラジオ番組がある。
「桑田佳祐のやさしい夜遊び」
全国398局ネット、土曜日の23:00~23:55
中学生の頃。
眠れない夜、んーん、眠りたくなかった夜はラジオを聴くのが日課だった。
携帯電話は持っていたけどラジオを聴くことができる機能はまだなかった。
だから、祖母のラジカセを借りてきて、布団の中にラジカセと一緒に潜り込んで、深夜ラジオの共犯者になっていた。
昼間とは違う世界に行きたかったんだと思う。
その日のやさしい夜遊びのメッセージテーマは、
「どんな時に春を感じますか」
だった。
いたってシンプルな問いかけ。だけど、問いかけられないと考えない気持ち。
「やすらぎ堤でたんぽぽを見つけたときかな」
メッセージを投稿するでもなく、そっと布団の中で自分の春を考えてみた。
やすらぎ堤は、新潟市の中心部を流れる信濃川沿いに整備された堤防。
わたしの実家の目の前で、遊ぶといったらやすらぎ堤、ケンカをしたらやすらぎ堤、学校をサボってやすらぎ堤、好きな人とお散歩するのもやすらぎ堤と、ずいぶんとお世話になった。もはや自分ん家の庭のように、季節の移り変わりもここで感じていた。学校をサボって、ゆるやかな傾斜の堤防に腰かけて、ぼんやりと川の流れを見つめていると、ふと、自分のお尻の近くにたんぽぽが咲いていることに気づいたりする。相変わらず、うまく世界になじめないわたしだったけれど、この時ばかりは、あら、こんにちは、と世界と繋がることができた気がした。
「はらぼーがいちご柄のパンツを履きはじめたら春」
これが桑田さんの答えだった。
中学生のわたしにはちょっとこそばゆくてドキドキする言葉だったけれど、愛する人の変化で季節を感じるなんて羨ましいなって感じたと思う。愛する人は季節も運んでくるんだなって、きっと感じていたと思う。
本来的な生き方は、死を見つめていずれ死ぬのに生きなければならないという苦しみと向き合うこと。しかし、普段生活する中で、死と常に向き合っているかというと、そうではない人が多いだろう。死から目を背けるように生きる。気晴らしをする、遊ぶ、仕事に打ち込む。 非本来的な生き方だ。 というのは、最近、筒井康隆さん『文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー』(河出文庫)を読んで、ふむふむと仕入れたハイデガーの哲学だ。さらに続く。本来ならば、自分で自分が存在している責任を負って生きていかなくてはいけないけれど、同じく非本来的な生き方をしている人々と関わることでその責任は免除され、死を忘れさせてくれる。
春を感じること。
これは、もしかしたら本来性に基づかないのかもしれない。
非本来的であるといわれるのかもしれない。
だけど、たんぽぽであれ、いちごのパンツであれ、愛おしく活力を与えてくれるものたちに触れて、今日もささやかな一歩かもしれないけれど、生きていたいなと思うのである。
ハロー4月。
世界が健やかでありますように。