歩こうよ。
嫌そうにする彼を口説いて、駅から美術館まで歩くことを決めると、急に吹雪出してきた。
ちらりちらりと雪が降ってきたというより、無慈悲に顔面を雪が直撃してくる。
手はかじかみ、指先の感覚がなくなってくる。これは美術館までもたないぞ、と思い、コンビニエンスストアに入る。運がよかった。オアシスを見つけたような心持ちだった。一歩、中に入ると眼鏡が曇る。
そこで、あたたかい飲み物と手袋を買った。
手袋をはめ、あたたかい飲みのを一口飲み、あとはそいつをカイロがわりに握りしめて歩く。
しかし、それでも限界がきたのは早かった。美術館までの道のりはまだまだ長い。この状態で歩き続けたら、着いた頃にはアートに触れる体力も気力も残っていないだろう。「ほれ、見たことか」と、あきれ顔をする彼。「ですよね…」と、わたしも折れて歩くのを断念し、流しのタクシーを止め、いそいそと乗り込んだ。あたたかい季節は、駅から美術館まで必ず歩く。気持ちいい散歩コースだから歩けなくて残念だな、と思いつつ、ふと、そうか、この季節に青森を訪れたのははじめてであることに気がつく。
タクシーの車窓からぼんやり外を眺めていると、雪が窓に張り付いては溶けて流れていく。ふわっと窓ガラスに着地して、スーッと消えていく。小気味のいいリズム。そんな一連の流れを見ているうちに美術館に到着した。青森県立美術館。美術館前の原っぱは雪で覆われて、真っ白。外壁が白い美術館は、地面と一体化しているように見える。
タクシーのおかげで温存できた体力と気力で、企画展もコレクション展も存分に楽しむことができた。
青森県立美術館はわたしにとって特別で大切な美術館。そして、大切な人がいる場所。だから、その大切な人のお仕事に触れるために、ほぼ毎年のようにここに旅にに来ている。だけど、その大切な人が青森を離れることを決められて……嗚呼、もしかしたら青森を旅することが少なくなっちゃうかもな…美術館にも次いつ来るかわからないな…なんて、少しセンチメンタルな気持ちもこみあげてきて、いつもより丁寧に展覧会を見て回った。
翌日、八甲田山まで足をのばした。酸ヶ湯温泉がおすすめだよと教えてもらったので、行ってみることにした。バスで山を上へ上へと進む、進む。美術館前の雪とは比にならない雪、雪、雪。標高が高くなるにつれ、樹氷も立ち並び、銀世界の美しさにうっとりするとともに、どこか怖さも感じる。すると、彼が「日本に留学をしにきたマレーシア人の友だちがさ、はじめて雪を見た時に、雪って冷たいんだ!って驚いていたんだ。彼は、映像や写真でふわふわした白い雪はあたたかいものだと思っていたらしい」と、学生時代の思い出を話しはじめた。おもしろいな、確かに、わたしだって、ふわふわのヴィジュアルだけを知っていたら、羽毛布団のようなあたたかさと柔らかさ、綿菓子のような甘さをイメージするかもしれないな。逆に、マレーシアってどんな国なんだろう、なんて想いを巡らせてみる。
昨日も今日もずっと真っ白の世界。
雪国から上京をしたわたしは、たまに東京の冬に物足りなさを感じてしまうこともある。
雪が恋しい、なんて気持ちになることもあるから、青森で久しぶりに雪に触れられたことは、ちょっぴり、いや、結構テンションが上がった。
ざくざくざく
雪を踏みしめる感触が懐かしく嬉しかった。
きらきらきら
雪で目が焼ける様に眩暈した。
「紅玉がある」
帰る日。シードル工場が併設されたお土産屋さんへ。たくさんのリンゴが販売されている中に「紅玉」があった。彼は紅玉が大好きだ。しかし、東京で紅玉を探しても、なかなかお目にかかれない。サンフジ、ジョナゴールド、秋映え…「昔はリンゴと言えば紅玉だったんだけどな」と、さまざまなリンゴを前に、いつもさみしそうな彼。以前、青森に旅した時に、リンゴやさんのおばあさんに、紅玉はあるかと尋ねたら、今は時期じゃないよと門前払いをされてしまったこともある。その時も彼は肩を落としていた。
今、目の前に紅玉がある。少し小ぶりなその果実は、深い赤色で艶っとしている。他のリンゴに比べて、どことなく銀幕のスターのような、渋いオーラを放っていた。やっと出会えた紅玉。彼は、他の土産物には目もくれず、紅玉を買った。
東京に戻り、きゅっきゅっと磨いた紅玉をまるかじりする彼。
大口開いて、がぶり、サクっ、むしゃむしゃむしゃ。
心地よい音だ。
そんな音を聴いていると、雪を踏みしめていた数日間の景色と感覚が蘇ってくる。
ざくざくざく
さくさくさく
真っ白い雪の中に、紅玉が顔を赤らめている。
白色にただ一点浮かびあがる赤色。
青森県立美術館では、マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の背景画を見ることができる。シャガールと言えば、シャガールブルーと言われるように、青色の印象が強いけれど、わたしは、そんな青色の中に突如現れる赤色に魅力を感じる。赤色が燃え上がり、青色がより美しく見える。
「あ、この紅玉はちょっと傷んでる」
彼が二個目の紅玉に手を伸ばし、怪訝な顔をしている。
それでも、その赤色は、この数日間の青森の旅を鮮やかにさせた色。
シャガールのそれのように。